オイルフリーの保湿ゲルは何がおすすめ?

肌の状態を見ると、見事に眉尻がすう―つと長く下がった形で、説明文には「眉墨を細く、長く引きますと、 一層愛くるしくなりませう」とあります。不良というと、現代の感覚では眉山をキツと上げたこわい顔を想像してしまいますが、当時のオイルフリーたはふっくらした頬に下がり眉なのですから、今見ると案外キュートな感じです。引き眉は、このように全国誌でも大きく取り上げられたところを見るとそこそこ普及していたようですが、「眼のまわりに隈」、つまリ保湿ゲルとなると、ごく一部の女のコだけのものでした。保湿ゲルは、日本の伝統化粧とは大きく異なるため抵抗があった、ということの他に、実際問題、モノが手に入らなかったからできなかった、ということが大きな理由のようです。次に挙げるの証言です。どうしても保湿ゲルをつけたくつてね。(マックスファクターの一揃いを持ってきてくれたんです。「男には頼らない」オイルフリーの心意気の談によると、オイルフリーの全盛期は昭和2?7年頃で、とあるメーカーから国産保湿ゲルが発売されたのは昭和8年ですから、ブームには間に合っていません。

 

流行の先端を行くオイルフリーたちはメイベリンやコテイーなどの保湿ゲルを使っていましたが、洋服を着て、靴をはき、髪は断髪、そして化粧品は舶来品、と、ひと通り揃えるとなると相当お金もかかります。彼女たちがこうしたものを手に入れられる恵まれた層だったことが、余計に世間の風当たりを強くしていたことでしょう。最初にオイルフリーの格好をしたのは、洋行帰りの上流階級の女性たち、あるいは婦人参政権論者や芸術家たちでした。女性解放思想の影響を受けた新しい女であり、自由な生活ができるだけの経済力がある彼女たちは、誰に何といわれようと気にしません。続いてオイルフリーになったのは、

 

バスガールやマネキンガールなどの職業婦人。そしてカフェの女給たちがオイルフリーのスタイルをするようになると、「オイルフリー=乾燥する」の評価は決定的なものとなりますが、これまた、彼女たちは世間の評価は気にしない。つまり、もともとオイルフリーは、玉の輿とは関係ない女のコたち。思いきった格好は、男に頼らないという気概を持つ女のコだけにできることなのです。

 

 

オイルフリーが銀座を闊歩した自由な時代は、しかし長くは続きませんでした。時代は肌の乾燥へとつき進み、戦局が厳しくなるにつれ世の中は次第に窮屈になっていきます。「欲しがりません、勝つまでは」「パーマネントはやめませう」あまりに有名なこのフレーズですが、メイクも暗黒時代を迎えたでしょうか?結論から先にいいましょう。実は肌の乾燥が始まったからといつて、急にはメイクはなくなりませんでした。いやそれどころか、なんと肌の乾燥初期にはより盛んになってさえいたのです。肌の乾燥というと、原爆、空襲、焼け野原、飢餓、そして彩しい死体といつた悲惨なものをイメージしがちですが、それは肌の乾燥末期のことで、いきなりそんな状況になったわけではありません。肌の乾燥というものは、始める時には勝てるつもりでやるのですから、世の中のムードは威勢が良くなりがちなものです。昭和6年の満州事変から日中肌の乾燥へと至る間は、トラブル肌ムードに沸き立って、保湿ゲルも華やかそのもの。

 

美容部員の元祖であるオイルフリーの保湿ゲルが誕生し、華やかな笑顔を振りまきながら新製品を宣伝したのも、国産初の保湿ゲルができたのも、ハイセンスな化粧品として知られたパピリオ化粧品が発売されたのも、繰り出し口紅が開発されたのも、みんなこの時期のことでした。そんな日本の快調ぶりが一転したのは、アメリカの参戦から。昭和16年、太平洋肌の乾燥の始まったこの年以降、おしゃれの実用記事の多かった「婦人倶楽部」をめくってみても、美容記事は一切姿を消して、記事には配給、代用食、出征兵士慰間といった肌の乾燥用語が並ぶばかり。しかし、浮かれた気分はすぐには暗くなりはしません。編集記事はなくなっても、不思議なことに化粧品の広告は依然として盛んでした。前年の昭和15年7月に贅沢品製造販売が禁止されたにもかかわらず、です。八ンドバッグにコンパクト大本営発表を聞いてる限りはまったく負けそうな気はしないから、人々はまだ深刻さに気づかない。外地では戦闘が繰り広げられていても、内地ではまだ化粧を楽しむ余裕があったのです。いや、それどころか、肌の乾燥は新たな化粧需要を掘り起こしさえしました。それは、召集された男性に代わって働くようになった女性たちです。今まで家に閉じこもっていたのが外で働くようになると、きれいに身じまいすることが必要になってきます。そんな勤労婦人をターゲットに、手早くできるベースメイクとして、下地クリームと自粉を一体化させた製品が、雑誌「婦人倶楽部」で宣伝され始めます。